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父 コウホシャになる

さて、こうしたわけのわからない家族会議の結果、父、熊代昭彦は出馬表明をする」こととなった。

あとになってから知ったことだが、父は当時、事務次官の有力候補の一人だったらしい。
「天下り先」などその後のポストもきっと用意されていたのだろう。

「事務次官やら天下りなんで、他人の決めたことにハンコを押すだけだよ。そんなつまらないことやっていられるか」、
父は笑いながら母に話していた。

父が欲しかったのは肩書きでも権力でも、お金でもなかった。
父は何よりも「仕事」がしたかったのだ。

「政治家になることについて、家族の中で最初に理解してくれたのは娘だった」

と、父は後にそう話していたらしいが、父が「コウホシャになる」ということがどういうことなのか、私はまったく「理解」などしていなかった。

ここに書くのも恥ずかしいことが、そのころは「選挙活動」というものは公示から投票日までの2週間だけ必死に頑張るもの、だと思っていたのだ。

素人の自分が、「選挙」を目にするのは、その間だけだったからだ。


ようするに銀行の窓口が3時に閉まるのを見て、「銀行員は早く家に帰れていいなあ。」と考える子供と同じレベルである。


白状すると、私の中の「理解」はこうだった。公示の日に、父は「立候補」する。そこで、はじめて父は「候補者」となる。投票日までの間に演説会を開いたりビラを配ったりしながら、政策や主張をテレビや新聞で取り上げてもらう。そして投票。

もちろん公示日までには、いろいろと準備があるから事務所が必要だろう。父は岡山と東京を行ったり来たりする生活になるのだろう。そこまでは予想できていた。

ただ、まさか立候補を表明したその日を境に、父とも、そして母とも一緒に住めなくなるとは夢にも思っていなかった。

1992年2月。私は大学からの卒業、そして弟は大学受験を目前に控えていた。今にして思えば、母も切なかったのだろう。いつも明るく前向きな母には珍しく、「卒業旅行に行かないでほしい」と懇願されたのを憶えている。

その気持ちに応えるべく、ほんの少しだけ日程を短くした卒業旅行から帰ってみると、待っていてくれるはずの母は、岡山に発った後だった。

急に家ががらんとして、広く見える気がした。両親が岡山に住民票を移し、兄も前年就職して家をでていたために、突然一家の「世帯主」の座についたのは、若干21歳の私だった。

こうして、私と弟の二人暮らしが始まった。

4月。晴れて大学生となった弟の入学式にも、父と母が戻ってくることはなかった。

最初は一人で平気だと言っていた弟も、入学式当日には寂しくなったらしく、
「やっぱり一緒に来てくれる?」と言い出した。

キャンパスの満開の桜の下で、一人ぼっちの記念写真を撮りながら家族そろってお祝いすることもない弟が不憫に思えた。


もちろん母からは何度も電話はかかってきた。電話口で母は何度もこう繰り返した。
「本当にごめんね。帰りたいけれど、今はどうしても帰れないのよ。」

一体、ウチの親は、岡山で何をしているんだろう?いつになったら東京に戻ってくるのだろう?

それでも、そんなことを深く考える間もないほど、社会人一年生の生活は忙しかった。

それまでのお気楽な学生生活とはうってかわって、毎朝7時には家を出て、疲れきって家に帰りつくのは9時をとっくにまわっていた。弟も大学の研究で帰りが遅く、住宅街の中でウチだけがいつも真っ暗だった。

それまで気にとめたことすらなかった隣家の明かりがとてもまぶしく、うらやましく思えた。

ちょうどその頃、成人した子供たちが家を出た後に、親が空しさにおそわれる「空の巣症候群」がテレビでとりあげられていた。

「うちはこれの逆パターンだよ。」

と弟が言い出し、二人で大笑いした。

まるで青年のように意気揚々と家をでていったのは、父のほうだったからだ。そして、「あの二人、いつ帰ってくるのかなあ」と首を長くして待っているのは、「家を守る」私と弟のほうだった。

新生活に悪戦苦闘しているうちに、12月がやってきた。なかなか休みのとれない銀行員が、唯一大手をふって休めるのが年末年始の連休である。30日の仕事納めを指折り数えて待った。

私は岡山出身でも岡山育ちでもないから、本当は「帰省」ともいえないけれど、とにかく親元に帰る、という感じがうれしかった。これでしばらく仕事や家事から解放されて、のんびりできそうだ。

12月30日午前中に「仕事納め」をして弾む足取りで新橋駅に向かい、人でごったがえす東京駅で新幹線に飛び乗る。

やっと連絡のとれた父と母は、とあるロータリークラブのような団体の忘年会に出席しているということだった。私は会場であるホテルで両親と合流することになっていた。

さすがに年末だから、働き者の父も母も、そのロータリークラブの忘年会とやらで、知り合いの方達とのんびりしているんだろう。

100人ほど集まったホテルの宴会場には、主催者のご好意で、父の隣に私の席も用意してあった。忘年会ということで、壇上の司会者から会の年次報告などがあった後、簡単に父の紹介をして下さった。

「次の衆院選で立候補を予定している熊代昭彦候補者です。皆さん応援してあげてください。」

ドキドキしていると、会場からどっと温かい拍手がわいた。初めて父が候補者と呼ばれているところに立会い、何となく気恥ずかしくもあり、また応援してくださる方達がいることをうれしく感じた。

父と母は一礼をして簡単な挨拶をした後、周りの方にビールを注いで挨拶を始めた。
乾杯が終わった。

父と母はまだテーブルを回ってお辞儀をしてはビールを注いでまわっている。いつになったら席につくんだろう。大きな丸テーブルで知らない人たちに囲まれて小さくなっている私は、少しイライラし始めた。私は東京から飛んできたばかりだったから、まだ両親と一言も言葉を交わせていなかった。

料理が運ばれてきた。会場の方が食事を始めても、それでも父と母は席にかえってこない。相変わらずビールを注ぎ、頭を下げ、自分達は立ったまま会場の方と笑顔で会話をしているだけだ。

仕方なく自分の前に運ばれてきた料理を一口食べて、やっとわかりの遅い自分も状況がのみこめた。

--父と母は最初から席について食事をする気などなかったのだ。これが「候補者」の挨拶まわりというものなんだ。

結局2時間ほどの会合の間、まわりが食事を楽しんでいる間にも、父と母が席につくことは一度もなかった。ただの一瞬も無駄にすることなく、出席者の方に笑顔で挨拶をしては名刺を配って歩いていた。

「コウホシャになる」という厳しい現実を、はじめて思い知らされた瞬間だった。

私の内心の複雑さとは裏腹に、両親はどちらかと言えば楽しそうに頭を下げ、握手を交わし名刺を配って歩いていた。これがごく当たり前に毎日繰り返されている光景なのは、二人の様子からすぐに見てとれた。

その証拠に、その夜両親は10時すぎになってようやく遅い食事を取りながら、ごく普通のことのように「明日は朝6時から、商店街で挨拶まわりね」と打ち合わせをしていたからだ。

大晦日の朝早くから、年末の買い物客でにぎわう商店街を父と母はそれぞれ一軒一軒挨拶してまわっていた。その商店街に住む支援者の方のつてを頼って、いちいち紹介してもらいながら挨拶をして歩くのだ。

一人で家にいてもしょうがないので、私も母と一緒について「歩いて」みることにした。
ついに「選挙応援デビュー」である。

一緒に商店街を歩いてくださったのは、ある商店を経営する50代の奥様でとても気さくな方だった。その紹介者の方がいるとは言え、「父を宜しくお願いします」と全く知らない方に向かって挨拶するのは気恥ずかしいし、疲れることだった。会話も上手く続けることができないし、笑顔もすぐにこわばってしまう。

年末・年始のきらびやかな飾りにつつまれた商店街で、まわりは楽しそうに買い物をしている人ばかりだった。自分は一体何をしているんだろう。一時間もすると足が棒のようになり、今すぐにでも帰って休みたくなった。

母に小声で「もう帰りたい」と訴えたが、目で「もう少しの我慢」と制された。

たしかに紹介者の方も一緒に歩いてくださっている手前、「候補者の妻」としては子供が疲れたから帰らせたい、などとは口がさけても言えないのだろう。せっかくの休みなのに、と内心帰りたい気持ちでいっぱいだったが、それでも三時間くらいは我慢して歩いただろうか。

午後には弟も東京から到着したことを口実に、弟と私はしばらく休憩することとなった。手伝いたい気持ちだけはあったのだが、体がとてもついていかなかったのだ。母は午前の挨拶まわりをおえると休む間もなく、また違う紹介者の方について今度は住宅街をまわることになっていた。

夕方からは、父は大晦日の消防団や夜警団の挨拶まわりだ。元旦の早朝から消防の出初式にも出席する。カレンダーの余白が見えないほどびっしりとかかれた年末年始の予定を見て、私は気が遠くなりそうだった。

あけて93年。1月3日に、私は半ば呆然として東京に帰ることになった。

待ち焦がれていた「帰省」が自分の思い描いていたものとあまりに違っていた。両親は三が日も挨拶まわりを根気よく続け、結局正月のあいだに家族が一緒の食事ができたときは一度もなかった。

そして今更のようにわかったことがあった。

二世議員でもタレントでもない、まったく無名の人間が「候補者」になるということはこれほど大変なことなんだ。

そしてまず候補者であるということを多くの人に知ってもらい、さらには応援してもらえるようになるには、地道で、気が遠くなるような労力が必要なのだ。草の根活動で支援の輪を大きく広げていかない限り、テレビや新聞が無名の父の主張を大きく取り上げてくれることなど、ありえない。

そのためには何の保証もない中、一人一人の手を握り、握手をし、頭を下げて一歩づつ歩いていくしかない。これこそが「ジバン」だった。のんびり屋の私にもようやく現実が見えた。

――父と母は、本当に、本当に大変な世界に飛び込んでしまっていたのだ。
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